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書物溺愛ライフ

近頃、輪をかけて本を買っています。本を買うことは喜びであり娯楽です。

読みたい本を自由に本棚に迎えられるようになったことは、大人になってよかったと思うことのひとつです。学生時代は、ハードカバーの本を買おうものならバイト代があってもちみちみとしか買えませんでしたから。周囲に時折「子どもの頃にお小遣いはもらえなかったけど本ならいくらでも買ってもらえた」という人物が現れるのですが、羨ましかったです。そうではない私は図書館に足しげく通っていましたが、自分の本棚に自分の所有物として並べられることの喜びは大きい。とても大きいです。

小学生の頃に、自分より背の高い本棚の列が並ぶ図書室を見て、感動にも似たような気持ちになったのが、本を好きだと思った最初のきっかけだったと思います。図書室の風景や気持ちを覚えています。本はただ存在するだけで胸が高鳴ります。

買えば満足をしてなかなか読み始めないことは多々ありますので、好奇心だけでは説明ができません。なぜかしら、所有欲・物欲かしらと思っていたところ、なるほどと腑に落ちるものに遭遇しました。

内田樹氏が『街場のメディア論』で、書籍購入と蔵書行為の意味について論じられていたところを引用します。

(…)自分の本棚は僕たちにとってある種の「理想我」だからです。「こういう本を選択的に読んでいる人間」であると他人に思われたいという欲望が僕たちの選書を深く決定的に支配しているからです。ジャック・ラカンの言葉を借りて言えば、僕たちの家の本棚は「前未来形で書かれている」と言ってよいでしょう。

「前未来形」というのは未来のある時点で完了した行為や状態について使う自制です。「今日の午後の三時に私はこの仕事を終えているであろう」というようなのがそれです。書棚に配架された本が「前未来形で書かれている」というのは、その書棚に並んだ本の背表紙を見た人が「ああ、この人はこういう本を読む人なんだな。こういう本を読むような趣味と見識を備えた人なんだな」と思われたいという欲望が書物の選択と配架のしかたに強いバイアスをかけているということです。

(中略)別にオレの家には客なんか来ないから、配架にそんな無意識的欲望のバイアスかかってないぞ、と抗議される方もおられるかもしれません。

そうでもないですよ。

だって、書棚に並んだ本の背表紙をいちばん頻繁に見るのって、誰だと思いますか。自分自身でしょう。自分から見て自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は僕たちの最大の関心事なんです。

(中略)哲学書とか世界文学全集とか詩集とかがずらっと並んでいたら、とりあえず「そういうものを読むような人間になりたい」という自分の願望ははっきり自分宛てに開示されている。

内田樹『街場のメディア論』

つまり、本棚の読まない本にも意味があると。

我が家もお客をお招きすることはありませんので、他人を意識した蔵書というよりは自分自身に対するメッセージの方が大きいということになります。自慢にはなりませんが、J.R.R.トールキン関連書籍は集めていますが、英語を大して読めもしないのに洋書を何冊も買っていますから。ファンのお知り合いの方々の話を伺うと、私なんぞ序の口です。トールキンに限らず読書自体が好きな方が多いですから、家を埋め尽くす蔵書量だったり、自宅を新築する際に本専用の図書室を作ってもらったという話が出てくるわけで、皆さん本をこよなく愛していらっしゃる。

この話を読んでもっと書棚づくりを熱心にやろうと決めました。蔵書を増やすというか、並べ方や集め方なども。そして家人の本棚にまで浸食している蔵書を解消すべく、年末までには本棚の増築をしようと協定を結びました。壁一面がほぼ本棚になる予定。楽しみです。

東洋文庫のモリソン書庫、憧れますね。

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