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「ムード・インディゴ」でブルーになる

「ムード・インディゴ〜うたかたの日々〜」を観てきました。原作は「20世紀の恋愛小説中もっとも悲痛な小説」と言われるボリス・ヴィアンの「日々の泡」。

「かなしい」という言葉も、「せつない」という言葉も、かんたんに当てはめられるような物語ではありません。こんなに残酷な物語は他に知らないです。でも、原作を読み映画を二度観て忘れることができない衝撃が残りました。物語を知る前と知った後とでは同じ自分ではいられないような感覚です。

きっと今後、何度かは原作を読み直し、映画も観たくなると思います。きっとそのたびに何か新しい感情がわいたり、見つけたりするのでしょうが、まずは今感じたことを書きたいと思います。

コランとクロエの恋の物語として

物語のモチーフとなっているのはふたりの恋の物語です。

ボリス・ヴィアンはこう書いています。

(必要なのは)どんな流儀でもいいが恋愛というもの、かわいい少女たちとの恋愛、それとニューオーリンズの、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消え失せたっていい、醜いんだから。

「日々の泡」まえがき

私ははじめて映画を観終えた時に、この二人が出会ってめでたしめでたしで終わってくれてもかまわないと思いました。二人の出会いからビグルモア(架空のダンス)を踊るシーン、雲の乗り物でのデートや透明のリムジンで旅に出る新婚旅行など、きらきらと輝くようなシーンの連続に幸せな思いで満たされました。それではヴィアンの思想は成り立たず、クロエが肺に睡蓮が咲くという奇妙な病をわずらうことが発端となり、闇に引きずられるように物語は色を失っていきます。最後に残るのは、ふたりが思い合う純粋な気持ちとデューク・エリントンの音楽だけ。

ドゥブルゾンと泡

“ドゥブルゾン”とは架空の通貨単位。現実の単位を使わないことで、リアリティのある”お金”を空想的なものにすり替えてしまったことは見事です。

コランは裕福で労働とは無縁の生活を送っていました。その対比として親友のシックは工場に管理されて労働しています。生産率が下がれば解雇されてしまいます。コランが1万5000ドゥブルゾンかけて購入した透明リムジンも、シックがコランからアリーズとの結婚の資金にと融通してくれたドゥブルゾンを使い果たして購入したパルトルの著作や原稿などのコレクションも一瞬にして無に返しました。

コランとクロエの恋愛を泡と表現する記述が多いのですが、私はドゥブルゾンも泡のひとつに数えられるのではないかと感じています。ドゥブルゾンと替えられるものは泡となって消えていく。

新宿ルミネのコンセプトショップで衣裳が展示されていました

新宿ルミネのコンセプトショップで衣裳が展示されていました

シックが盲信した果て

ジャン=ソオル・パルトルという哲学者へ傾倒するシックには脆さがあります。私も本は好きで原書・日本語訳問わず集めている作家がいるのでギクリとしましたが、その分シックにはどうしようもない共感も覚えました。

シックの場合は収集の域を超えています。コランからもらった結婚資金であるはずのドゥブルゾンを、シックはパルトルのために使い切ってしまいます。シックにとってアリーズはパルトルを盲信する一部として存在しているだけでした。シックはアリーズに心臓を抜かれるまでもなく、心を失くしていたようなものでした。

“誰か”や”何か”を盲信することは自分の心を失くしてしまう行為で、気をつけないといけないなと思うことがあります。これは哲学者に対する傾倒だけではないですし、多くの人の声が耳に届くようになった今の私たちにとって身近な問題ではないでしょうか。盲信することは自分自身で考えることを止めてしまいます。

コランとクロエの新婚旅行でこんな会話をするシーンがあります。シックの盲信する様子はこの会話と繋がっているように思いました。

彼らは労働せずに生きられる機械をこしらえる労働をしないで生きるために労働しているってことなんだ。

ボリス・ヴィアン 「日々の泡」111ページ

救済されることのない物語

コランが「せめてもの弔いを」と思う気持ちさえ踏みにじられることが、この物語を強烈に救いのないものにしています。最後にただ残るのは、恋愛とデューク・エリントンの音楽のみ。映画では溺れるコランがすでにアトリエで編まれた物語と睡蓮から逃れられないことを暗示しているようでした。

こんなすさまじい物語をぶれることなく描ききったヴィアンに圧倒されました。また、自身の色を出しながら、原作を読んで抱いた想像力をより刺激する映画にしたミシェル・ゴンドリーもすごかった。

つらい。